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Channel: こけし千夜一夜物語
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第889夜:大内恵津子の初期作

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Etuko_s59_kao書籍でも直木賞や芥川賞受賞作など特定の分野のものでは初版本が珍重され、コレクションアイテムのひとつとなっている。こけしは、それ自身がコレクションアイテムではあるが、その収集方法は各人各様であり、初作(初期作)を集中的に集めている方もおられるであろう。私は特に意識的に集めている訳ではないが、初期の作品にはそれ以降の作品には見られない面白みがあり、機会があれば入手している。今夜は岳温泉の大内恵津子の初期作である。口絵写真はその表情である。

大内恵津子は昭和35年の生まれ、岳温泉の大内慎二と結婚し、昭和59年3月に木地修業を始め、こけしを作り始めたとある。夫の慎二が木地修業を始めたのはちょうど1年前の58年3月。以来、夫婦揃って、こけしを作ることになった。

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写真(2)(3)は恵津子のこけしと署名で、大きさは6寸。胴底には「昭和59年5月18日 岳 恵津子作」と署名がある。木地修業を始めて3カ月にも満たない頃の作ということになる。木地描彩とも本人かどうか分からないが、首のところに鉋跡が残っており嵌め込みも緩いことから本人木地と思われる(第860夜で紹介した慎二のこけしの木地はもっとしっかりしている)。それにしても、高々数か月でここまでのこけしを作ったことは大したものである。素朴な表情、太く滲んだ赤と緑の返しロクロ模様は、今朝吉から続く岳こけしをしっかりと受け継いでいる。女性らしく温和で静かな表情のこけしである。

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写真(4)に慎二と恵津子の初期作を並べて見た。それぞれに特徴があり、両者の後年の作とは味わいも異なる、この辺りが初期作の見どころもであり取集意欲を掻き立てられる要因でもあるのであろう。現在、ご両人ともこけしは作っていないようで寂しいことである。年齢的にも未だ若く、ぜひ復活を期待したいものである。


第890夜:阿部4代(阿部金一)

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Kin1_s17_kaoこけしは親子、子弟関係で引き継がれていくものであり、その伝承のこけしを集めるのも楽しいものである。とは言え、現存していてその素性がはっきりしているこけしは明治以降のものであり、その伝承を遡るのにも限度がある。親子関係での伝承では湊屋の佐久間浅之助-由吉-芳衛-芳雄-俊雄の5代が最長と言えるのではないか。しかし浅之助こけしは十数本しか知られておらず、これを集めるのは至難の業であろう。その次と言うと4代ということになるが、その1つに阿部一家がある。阿部治助-金一・シナ-敏道-国敏である。今回、金一のこけしを入手したことにより、この4代が集まったことになる。口絵写真は金一の表情である。

阿部金一は大正8年7月11日、土湯の生まれ。阿部治助の長男である。小学校卒業後の昭和9年に父治助について木地修業。こけしは昭和13年頃より作り始めたらしい。現存こけしは14年以降のものと思われる。昭和20年1月24日に病没しているため、残るこけしは少ない。金一の14年頃のこけしは治助を写したものであったが、15年頃からは目が二側目となり、治助とは趣の異なる溌剌とした明るい表情のこけしとなった。

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写真(2)が本項の金一こけし。大きさは8寸6分、胴底に「17.11」の書込みがあり、昭和17年11月入手と思われる。15年頃からの金一独自の表情の延長線上のこけしと思われるが、目は一側目となっており、ちょっとおどけた表情にも見える。胴中央下部の赤の波線が大きく密になっているのが印象的である。

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写真(3)は阿部一家4代のこけし。左から、治助、金一、シナ、敏道、国敏のこけしである。

第891夜:友の会12月例会(H25年)

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1312reikai_omiyage_2昨15日は東京こけし友の会の12月例会があった。12月の例会は通常第2日曜日なのであるが、今回は会場確保の都合上、第3日曜日となった。今回の例会は、中古品の大頒布会と銘打ったこともあってか108名もの参加者を得て、用意したおみやげこけしが無くなってしまい、幹事の分をお渡しして対応した。新品頒布、例会ギャラリーもないため、地方頒布こけしの抽選、こけし界ニュースのあと、大頒布会が開始された。出品中古こけしは約600本、他に今年度の新品頒布品の予備が約100本、正面と右側のテーブルに並べられていた。頒布は一巡目は1本、二巡目は3本まで、その後フリーで本数制限無しという手順で進められた。なお、5千円以上の購入者に対しては、今晃の小寸こけしが1本サービスされた。最後に小椋英二さん提供の大寸こけし6本をジャンケン大会で頒布してお開きとなった。口絵写真は中川郁夫(木地山系)さんのお土産こけし4種。

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写真(2)(3)(4)は満員の会場とテーブルに並べられた頒布こけし。

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写真(5)(6)(7)(8)は中古こけしの頒布品。価格帯毎に頭と底に丸い色シールが貼られている。

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写真(9)(10)は本年(1月~11月)の新品頒布こけし品。

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写真(11)は入札こけし。後列左から、岡崎幾雄の栄治郎型(友の会創立40周年記念)、佐々木せん、佐藤文吉(昭和43年頃)、佐藤英太郎(第1期の22歳頃)、前列左より盛秀太郎(保存完璧)、今晃(嶽前)2本、佐藤巳ノ助の打ち出の小槌(小豆、鈴入り)、佐藤英裕(15歳作)、佐藤丑蔵小寸作り付(77歳)、大内一次。

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写真(12)は抽選こけし。後列左から、奥山喜代治、奥瀬鉄則3本、阿部進矢、北原鉄造、前列左から、今晃、奥瀬鉄則、阿部進矢の帽子こけし、奥瀬鉄則、今晃の伊太郎型。

第892夜:例会で入手のこけし(鈴木晃悦ほか)

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Koetu_yasu_s14_kao今夜は15日の友の会例会(中古品大頒布会)で入手したこけしを紹介しよう。抽選、入札とも外れてしまったので、これが全てである。出品数が多く、事前に目を付けておくのがなかなか難しかったため、自分の番になってから選んだものである。頒布は受付番号の末尾番号を抽選で決まった順に行われる。私の受付番号は「11」だったので、末尾番号は「1」。最初に選ばれた末尾番号は「9」で、私の「1」は4番目くらいであった。最初の1巡目は1本、逆番からの2巡目は3本と決まっていたため、その本数内で選ぶことになった。口絵写真は、1巡目で入手した晃悦こけしの表情である。

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写真(2)が今回入手したこけし。左から、1巡目に入手した鈴木晃悦の復元作(8寸2分)、次の3本が2巡目に入手したもので、横山水城4寸(61年作)、岸正規6寸5分(53年作)、佐藤一夫4寸(32歳作)、右2本は半額になってから入手したもので、後藤希三8寸と遊佐寿彦5寸3分。これで総額3200円であった。

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帰宅して確認したところ、晃悦のこけしは安太郎の昭和14年のこけしの復元作であることが分かった。写真(3)が並べて見たものである。左が第576夜で紹介した昭和14年の安太郎、右が今回入手の晃悦。

木地形態・描彩とも非常に良く似ており、晃悦のこけしが左の安太郎のこけし(現物ではないだろうが)を復元したものであることが分かる。角張った縦長の頭と直線的で裾が窄まった胴はほぼ完璧に安太郎を写している。胴底も鋸の切り離しで鉋仕上げはしていない。

面描も小さい前髪、大きな鬢、直線的な眉・目、長い割れ鼻など、安太郎の特徴を良く写している。ただ、左の安太郎と比べると、目の位置がやや上になっており優しい表情である。目の位置をもう少し下げて、割れ鼻の上よりも下になればさらに迫力のある表情になったのではないだろうか。もっとも、それは本項の安太郎との比較であって、晃悦が参考にした「原」はこのようなものであったのかも知れないが・・・。

なにはともあれ、良いこけしを安価に入手することができ、満足のいく頒布会であった。

第893夜:伊藤長一のこけし(戦前)

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Cyoichi_s18_kao今月3日の「たんたん」での古品即売会では藤井梅吉と大沼希三の2本のこけしを入手したのであるが、その時に気になるこけしがあった。伊藤長一のこけしである。小寸であったが、昭和18年頃との紙片が貼ってあった。帰宅して、こけし辞典等で長一こけしのおさらいをし、やはり欲しくなって「たんたん」に電話をしたら未だ残っていた。そうして入手したのが今夜紹介する長一のこけしである。口絵写真はその長一こけしの表情である。

伊藤長一のこけしについては、第600夜と第778夜で、その戦後作を紹介している。戦前の経歴は「こけし辞典」によれば『山村を有効に使用する目的で、昭和14年秋、同部落伊藤肇宅にロクロ5台を設置し、鳴子から伊藤松三郎を招いて木地を修業した。・・・。昭和15年7月入隊、南支を経て昭和18年9月に除隊。以後ふたたび松三郎の指導を受けつつ昭和21年春に独立した。』と。従って、紙片の「昭和18年頃」が正しければ、除隊後に作り始めた当時に作品ということになる。

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写真(2)がその長一こけしである。大きさは5寸。下膨れの蕪頭、胴は細身で肩の山は高い。当時の松三郎こけしの伝承ということになるのであろう。

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写真(3)に松三郎こけしと並べてみた。真ん中が本項の長一こけし、右は戦前の松三郎で左は戦後30年台の松三郎。頭の形は戦後の左の松三郎に似ているが、18年頃の松三郎はこのような形だったのかも知れない。細身の胴、肩の高い山は戦前の松三郎を写している。顔の表情も概ね近いようだ。

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写真(4)は胴模様をピックアップしたもの。それにしても、この模様は一体何なんだろうか。菱菊の上に描く横菊とも、または楓の変形とも、果ては蝶と言えなくもない。長一のこけしでこのような模様は見たこともないし、松三郎のこけしにも見当たらない。どなたか知っている方があれば教えて貰いたい。

第894夜:伊藤宏美のこけし

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Hiromiito_kao伊藤つながりで、今夜は伊藤宏美のこけしを紹介しよう。宏美と言っても女性工人ではなく、鳴子の伊藤松一の息子である。松一について木地修業をし、こけしも作り始めたのであるが程なく転職してしまったため、作られたこけしは少ない。そんな珍しいこけしがヤフオクに出品され運よく入手することが出来た。口絵写真はその表情である。

宏美のこけしを始めて目にしたのは、東京こけし友の会のおみやげこけし(昭和59年11月)である(第403夜参照)。その解説を引用しよう。『本来ならば、昨年はじめに登場してくれるこけしである。親子組合わせの企画でおみやげこけしを取り上げた折に、親子そろって作品が出来る時には、先ず一番に取り上げたいとの申し出に、父松一さんがこたえて実現したものである。唯事情があって、この作品が世に出る前に本人はこけしから離れてしまっており、松一さんのこけしも種々の事情があって今日迄作品が出来ていないが、時間的な面を考慮して了解を得て単独で採用することになった。作品は、はじめてとは思えないまとまりを見せており、惜しいの一言につきる』と。

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写真(2)が本項の宏美のこけしである。大きさは6寸。上述の事情から昭和58年前後の作か。伊藤松三郎から連なる伊藤家伝来のこけしである。木地形態、面描とも実にしっかり描かれている。胴模様は楓した見たことがないが、胴一杯に描かれていて鮮やかである。

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写真(3)は、真ん中が本項のこけし、左が上述の友の会おみやげこけし、右は祖父にあたる松三郎のこけしである。父松一よりも松三郎に近い雰囲気を持ったこけしである。

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写真(4)は、胴底の署名。この他に、「木地宏美、描彩松一」のこけしも存在する。

第895夜:安太郎のこけし(戦前ふたたび)

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Yasutaro_s18_kao先日(21日)締め切りだった「ひやね」の入札で鈴木安太郎の戦前作をゲットした。通常一人の工人の戦前作はいいとこ2,3本止まりなのであるが、安太郎はこれで大小合わせて6本となった。安太郎の戦前作は昭和12年から18年までのものとのことであるから、それを考えると多い方であろう。先だっての橘コレクションで安太郎の早い時期のものを入手していたが、今回の出品は18年もので保存状態も良く、戦前作の変化を見る楽しみもあって入札に参加したのである。口絵写真はその表情である。

安太郎とそのこけしに関しては、こけし手帖85号、86号に「寒河江のこけし」と題して安孫子春悦氏が詳しく解説されている。それによると、父米太郎が盛んにこけしを作ったのは明治38年から40年頃で、その頃に安太郎もこけしを作ったかも知れないが定かではない。大正になると西洋玩具が入ってきてこけしは売れなくなり、安太郎はこけしを1本も作っていないと言う。安太郎がこけしを作り始めたのは昭和12年、川口貫一郎氏の勧めによるもので、以来、昭和18年までが戦前の安太郎のこけし製作期である。

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さて、写真(2)が本項のこけしである。大きさは8寸。胴底の署名は「山形県寒河江町 鈴木安太郎 49歳」となっており、「昭和18.10」の書込みもある。やや古色は付いているが緑の色が良く残っており、赤と緑のコントラストが鮮やかである。署名より戦前最後期の作と思われる。戦前の安太郎というと鋭角的な描線で剛直な雰囲気のこけしが代表的であるが、本項のこけしでは木地形態がやや丸みを帯び、面描にも優しさが感じられる。胴右下部に描かれる柵に赤点の飾り(小花であろうか)が付いているのは他の時期には見られないようだ。

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写真(3)に戦前と戦後直ぐの安太郎こけしを並べて見た。右から、昭和13年頃(第874夜)、昭和14年頃(第576夜)、本項のこけし、昭和34年頃。こうして比べてみると、戦前の数年間でも頭の形、面描にかなり変化があることが分かる。一方、左の2本を比べてみるととても良く似ているのが分かる。安太郎の戦後は昭和30年から始まるのであるが、戦後直ぐのものは昭和18年作と殆ど変わらない。左端は胴底に「S34」の書き込みがあるが、頭がやや丸くなったのと、鼻の上端が目の位置に下がった程度の違いしか見られない。安太郎のこけしが大きく変わるのは昭和35年からである(第709夜参照)。

第896夜:久治戦前作

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Kyuji_s17_kao今年もあと1日余りで終わろうとしている。このブログが今年最後のブログとなる。今年は第798夜から始まったから、この1年では98夜しか進まなかったことになる。さて、今夜は戦前の新山久治こけしである。久治は戦前から戦後と長い期間作っているので、その残るこけしは多く、中古市場でも良く見るこけしである。しかし、「こけし辞典」や「木の花」でも、初期の大頭で耳を描いた時期のものや、戦後の昭和29年を中心としたピーク期のものを除くと記載は少なく、戦前のものでも評価は低い。今夜はそんな恵まれない時期の久治こけしを取り上げてみたいと思う。口絵写真はその表情である。

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写真(2)が本項のこけし。大きさは8寸5分。胴底に「五拾五才」と「17.8」の書込みがある。「木の花(第弐拾五号)」では、久治の製作歴を「前期」「中期」「ピーク期」「後期」の4期に分けており、「中期」が昭和10年頃から27年頃までで、本項のこけしはその中に含まれる。この時期は昭和15年を中心とする戦前の第一次こけしブーム期にも当たり、多くの工人が多彩なこけしを作っていた時期でもある。新山家のこけしは、久治も含めて木地形態、描彩ともあまり変化のないものである。「前期」は大頭で大胆な木地形態、「ピーク期」は集中度の高い面描が印象的であるが、この中期のこけしは木地形態もおとなしく、面描にも際立った特徴がないと言える。

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写真(3)は右が本項のこけしで左がピーク期の特徴を残す31年のこけし。このように並べて見ると、木地形態、面描とも両者の違いが良く分かる。横広の大きな頭、緊張感のある鋭い瞳など左のこけしの完成度は高く魅力も多い。一方の右のこけしは影が薄い。しかし、これが新山家のこけしの持ち味と言えなくもないであろう。黄胴にロクロ線と襟、裾だけの簡素な胴模様に何の気負いもない素直な瞳は良く似合う。見ていて心休まるこけしである。


第897夜:日本伝統こけし展入賞こけし(遊佐福寿)

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Fukujyu_kokeshiten1_kao新年おめでとうございます。2014年は平穏な内に始まり、関東地方でも素晴らしい初日の出を拝むことができた。本ブログも1001夜まであと100夜あまり。何事もなければ今年中に達成できそうである。昨年の大晦日にヤフオクで入手した1本のこけしが送られてきた。遊佐福寿のこけしである。出品解説には「昭和58年に東京の某デパートで開催された、第1回の全日本伝統こけし展の大賞作の現物です。」とあった。そこで同展示会の小冊子の受賞こけしの写真と比べてみると、確かに同じもののようである。但し、出品解説では大きさが26cmとあるが、写真では7寸となっている。さて・・・。新春第1夜はその福寿こけしを紹介しよう。口絵写真はその表情である。

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写真(2)は自宅のベランダから見た初日の出である。

東京の小田急百貨店では第2次こけしブームの昭和48年から毎年、「東観」主催で「伝統こけし30人展」が開催されており、それは57年まで10回に渡った。この30人展は10回を区切りとし、58年には内容を拡大して「第1回日本伝統こけし展」として開催された。このこけし展では、審査員にこけし関係者だけでなく、写真家(秋山庄太郎)、日本画家(福王寺法林)、彫刻家(飯田善国)、人形作家(金林真多呂)、人形研究科(アン・へリング)を加えて、より広い方々から「こけしの美」を評価するという革新的なものであった。

このこけし展(コンクール)には125人の工人から224本の出品があり、6月4日に上記の方々を含む10名の審査員により審査が行われ、大賞1点、優秀賞10点、佳作20点が選ばれた。展示会終了後、この展示会への出品作は受賞作も含めて一般に販売された。

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遊佐福寿の出品作は、このこけし展で優秀賞に入選している。写真(3)がその現品こけしである。大きさは8寸5分。従って小冊子に記載の「7寸」は間違いである。このこけしは、盛古型と言われるもので、昭和7年の橘頒布頃の盛こけしを「原」としている。その初作は昭和52年の全日本こけしコンクールの出品作である(詳細は第11夜参照)。角張った肩(肩の上面も赤く塗られている)と平頭が特徴のこけしである。

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写真(3)は右から、昭和56年11月、本項のこけし(昭和58年6月)、平成3年12月の盛古型である。この型は昭和52年から作られ始めたのであるが、56年頃より平頭がより顕著になり、細胴でスラリとした形態になる。また、口も当初は赤1点であったのが、中が開いた丸口となる。眼点は大きめで目尻の上がった張りのある表情、頭頂部の水引は4筆、鬢飾りは2筆または3筆である。胴模様は丸い正面菊を2輪重ねたものが基本であるが、本項のこけしのように上部を横菊にしたもの、また6寸程度のものには2輪の楓を描いたものもある。

第898夜:日本伝統こけし展入賞こけし(我妻信雄)

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Nobuo_kokeshiten2_kao正月2日は箱根駅伝で迎えるのが恒例となっている。昨年優勝の日体大が1区トップで始まったが、2区で区間新も期待された山梨大のオムワンバが突然の足の故障でリタイアするなど、何が起こるのか分からないのが駅伝である。明日の復路は東洋大と駒沢大の優勝争いとなるようだ。さて、昨夜は第1回日本伝統こけし展の出品こけしの話をしたが、今夜は第2回日本伝統こけし展に出品された我妻信雄のこけしである。口絵写真は、その信雄こけしの表情である。

第2回日本伝統こけし展は、昭和59年6月8日から13日まで開催された。前年の革新的なこけし展はやはり無理があったのか、今回は従来通りこけし関係者16名による審査でコンクールは行われた。なお、こけし展に併催するかたちで井上ゆき子さんの個展も行われ人気を博した。コンクールには96点の出展があり、大賞1点、優秀賞10点、佳作20点が選ばれた。本項の信雄こけしはこのコンクールで優秀賞を受賞した現品である。

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写真(2)がその受賞こけしで、大きさは1尺である。我妻信雄は昭和47年頃より小原直治のこけしを追求し、それは50年代の前半には完成の域に達し、その後は小原直治をベースにした自身のこけしを目指していた。

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写真(3)は左が本項のこけしで、右はちょうど2年前の昭和57年6月である。右のこけしでは頭はやや縦長で、眉目は湾曲が大きくアクセントも出ている。鬢は顎の下まで長く伸び、鋭い眼差しの中に潤いと甘美さを含んだ明敏な表情になっている。直治の写しを通じて追及してきた「信雄こけし」の1つの到達点と言ってよいだろう。左のこけしでは、頭の形が縦横同じくらいの長さとなり、目の位置も顔の中央に描かれて、頬がふっくらとした感じになっている。眉目のアクセントは無くなったが、目の表情には見るものの心を捕えて離さないエネルギーを感じる。右のこけしから更に一段進化したことが覗われる。信雄はこの後も同趣のこけしを作り続けていたが、昭和63年に病に倒れ、以後一時的にこけしを作ったが、本項のようなこけしを作れるまでには回復せず、昨年82歳で亡くなっている。

第899夜:橘コレクションのこけし(遠刈田不明)

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Togatta_fumei_ttbn_kao今夜は今年初めて入手したこけしを紹介しよう。ヤフオクに出ていた橘コレクションのこけしである。橘著「こけしざんまい」の228頁「初期蒐集こけしのいろいろ」に写真掲載されているこげすの現品である。作者名は不詳であるが、掲載写真群像中一番の小寸でありながら、勘治や直治、久四郎ら錚々たるメンバーの中に入っており、橘氏が注目したこけしの1本であったのだろう。掲載写真では頬紅を差しているようにも見え、手元でじっくり見てみたいと思いオークションに参加して運良く入手できたものである。口絵写真はその表情である。

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写真(2)(3)は胴底の橘氏(木形子洞)のラベルとそのこけしである。大きさは4寸3分の作り付である。やはり全体的に汚れていたので、消しゴムで汚れをとった。ラベルの記載から橘氏が1932年(昭和7年)9月に入手したものであることがわかる。「作者不詳」とあることから工人から直接入手したものではなく、その製作年月は更に遡れるのかも知れない。木地形態から遠刈田系のこげすであることは分かったが、描彩は現在ある一般的なこげすと比べると異なる点が多々見受けられる。

首は鉋で溝を掘っており、そこに赤いロクロ線を入れている、更にその下に紫(?)のロクロ線が引かれているようだ。胴下部には2本の太いロクロ線が引かれており色は緑であるようだ。首からは黒で輪郭を引いた赤い襟が描かれ、胴模様はやはり黒で輪郭線を付けた梅花と蕾が一面に散らされている。葉や茎があったかどうかは確認できない。

そして、最も異なるのは頭部と面描である。頭頂部には緑を丸く塗り、その周りを4つの赤い半円で囲んでいる。頭頂部から鬢にかけての手絡模様は描かれていない。眉目は顔の上方で鼻は浅い丸鼻、口は墨の2筆描き、そして薄っすらと頬紅を塗っているのが分かる。一側目の眼点は大きいが張りのある格調の高い表情である。かなり描きなれた工人の作と思われる。

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写真(4)は右が本項のこげすで、左は佐藤正吉のこげす(戦前中の沢時代)である。本作、最初は庄吉の古作かと思っていたが、こう並べてみると筆致が異なるようだ。正吉の頭頂部は所謂蝶型といわれるもの、本項のこけしの頭頂部はそれとも違う。この手絡のない頭頂部、墨のみの口、それに頬紅などの様式は、遠刈田の古い様式なのかも知れないが、類例を知らないため何とも言えない。作者は誰なのであろうか。墨輪郭の梅模様は好秋のこけしに見られるが…。いずれにせよ、昭和1桁以前の遠刈田のこげすであることは間違いない。

第900夜:再び希三

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Kizo_s14ato_kao年が明けて、ようやく900夜を迎えた。山登りで言えば九合目に達したところであるが、残りの1合が大変ということもある。これからも一歩一歩地道に歩んで行こう。さて、今夜のこけしは昨年の11月、「たんたん」の古品即売で入手した大沼希三のこけしである。今日、たまたま都築コレクションの写真集を見ていたら、良く似たこけしが載っていた。そこで描彩の特徴を子細に比べてみて、このこけしが都築コレクションの現品であることが分かった。写真集に載っているのと殆ど変らない保存状態の良さで、胴一面に塗られた黄色も良く残っている。口絵写真はその表情である。

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写真(2)が本項のこけしである。大きさは7寸8分。胴底には、マジックで「希三. S.10.末」と鉛筆で「木精舎 旧溝口」の書込みがある。希三のこけしは昭和14年頃からのものが知られており、本項のこけしも14年頃と思われる。但し、14年でも初期のものは眉目が顔の上方に寄った特異な表情をしており、本項のこけしは目が下がっているので、14年でも後ろの方になるのであろう。やや縦長の蕪頭、細身の胴に黄色を塗り、ピンクがかった赤ロクロ線が木地に滲んで良い味を出している。伏し目がちな表情が東北のおぼこい乙女を思わせる。

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写真(3)は右から昭和14年は初め、真ん中は14年の後ろ、左は16年の作。これを見ると希三のこけしがどのように変化していったかが良く分かる。右では鬢飾りは付いておらず、真ん中から付くようになる。また、胴模様の上部の横菊も右では全花弁が上を向いているが、真ん中では一番外側の花弁は横に垂れており、左の菊模様への移行を感じさせる。右は大沼竹雄の胴模様をそのまま真似たものであるが、左は岡崎斎の菱菊に近づいている。

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写真(4)は写真(3)の3本を斜め上方から写したもの。頭頂部の赤い水引き、肩上部のロクロ線の変化が見てとれる。肩上面は、右では何も塗られていないが、真ん中では黄色に、そして左では赤に塗られている。

このように、戦前の希三のこけしが僅かな間に大きく変わっていったのは、希三が特定の師匠を持たず、自由にこけしを作れる環境にあったことが影響していると思われる。第一次こけしブームの最中、当初は野趣溢れるこけしであったが、当時人気のあった岡崎斎系の華麗なこけしにと変化していったのであろう。

第901夜:藤井梅吉のこけし

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Umekiti_s9_kao今夜も昨年の「たんたん」古品即売会で入手したこけしである。抽選番号が7番と早く、以前から欲しかった藤井梅吉のこけしを選んだ。昨日、これも偶々、酒井利治氏の「木這子との邂逅」を眺めていると、その109頁に載っているこけしが本項のこけしであることが分かった。こけし店で売りに出される古品は著名なコレクターの旧蔵品であることが多いようだ。素性がはっきりしていることは安心できることでもある。口絵写真は、その梅吉こけしの表情である。

藤井梅吉は明治31年、岩手県鉛の生まれ。明治40年頃から、小松留三郎や藤井幸左衛門(大沼岩蔵の弟子)について木地挽きを習った。その後、明治45年に藤井万作の養子となり、照井音治について木地挽きの手直しを受け、こけしの作り方も習った。こけしの文献での紹介は「日本郷土玩具・東の部」(昭和5年)が最初である。昭和11年3月には亡くなっているため、残るこけしは多くないようだ。こけしは鳴子系の木地形態に遠刈田系の描彩を施したものであるが、首は南部系のキナキナのようにグラグラ動く。頭頂は手絡模様と黒い蛇の目模様の2種類あり、胴は重ね菊模様の他に無彩のもの、無彩で胴中央部にくびれを入れたものもある。

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写真(2)が本項のこけし。大きさは9寸2分。頭頂は蛇の目模様で、前頭部から鬢の後ろにかけて水平の赤い飾りが入っている。肩の山には上部に緑ロクロ線が3本、下部には赤ロクロ線が3本引かれている。胴上下にも赤ロクロ線が2本ずつ入っている。胴模様は5段の菱菊で最下部には四つ花が描かれている。面描は、眉と目に大きなアクセントがあり、二側目の下瞼は下に凸のように見える。これらの特徴から、制作時期は昭和9年頃と思われる。

第902夜:金三の梅吉型(1)

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Kinzo_s49_kao昨夜は藤井梅吉のこけしを紹介したので、今夜はその梅吉のこけしを継いだ高橋金三の梅吉型の話をしよう。昭和11年梅吉の死後、梅吉型は途絶えてしまったが、昭和35年より花巻に居た佐藤誠により復元された(第290、291夜を参照)。その誠も昭和45年に亡くなり再び梅吉型は廃絶してしまった。それを惜しんだ花巻の高橋金三が煤孫実太郎の薦めもあって梅吉型を復元したのは昭和47年のことである(第55夜参照)。その後の金三梅吉型については文献等で纏めた報告はないが、こけし手帖508号に村上穆氏が「追悼 高橋金三さんの梅吉こけし」と題して寄稿している。この手帖記事に沿って、手持ちの金三こけしを眺めてみたい。口絵写真は昭和49年頃の梅吉型の表情である。

写真(2)に金三梅吉型の復元作を並べてみた。大きさは8寸。右より昭和47年2月の初作近辺(第55夜で紹介)、2番目は47年8月、真ん中は47年後半から48年前半頃、4番目は48年後半、左は50年6月。梅吉の頭部の描彩様式は4種類程に分けられるが、この5本は蛇の目に前髪があり、赤い手絡模様が付いたものである。金三が最初に参考にした梅吉こけしは定かではないが、復元初作を紹介した手帖133号の記事には昭和5,6年頃の梅吉こけし(中屋旧蔵、9寸)が掲載されており、1つの参考になろう。但し、この中屋梅吉は頭頂部は蛇の目ではなく、手絡模様のみである。金三が現品ではなく写真で復元したとすれば、頭頂部ははっきり分からなかったと思われる。この中屋梅吉は「木の花(第八号)」にカラー写真で掲載されており、胴模様の描彩色が分かる。それによると、重ね菊の花芯と最下部の四つ花が緑で描かれているのである。写真(2)の右2本(47年作)は花芯と四つ花が同じ緑になっている。真ん中のこけしでは、四つ花は緑であるが花芯は黄色に変わっている。

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さて、手帖508号の村上氏の記事では4本の梅吉型こけしが掲載されており(写真(3))、右の2本(8寸と6寸)は写真(2)のタイプである。8寸(48年7月)と6寸(48年9月)で、6寸は郡山こけし蒐楽会の例会頒布品とのこと。写真(2)の左から2本目は8寸であるが、最下部の四つ花がなく、蒐楽会頒布品と同型のものである。形も安定し張りのある表情は素晴らしく、右3本の復元作から一皮むけたような秀作になっている。

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村上氏の記事の左2本(8寸と6寸)は8寸が都築蔵品、6寸が渡辺国三蔵品の復元作で、共に昭和49年1月の蒐楽会新年例会で頒布されたもの。頭頂部が蛇の目で前髪、手絡模様が無いタイプである。眉・目のアクセントが特徴的なものである。

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写真(4)にこのタイプの金三こけしを並べてみた。右から8寸(49年3月)、6寸(同)、5寸(49年6月)、7寸(50年6月)。右の8寸と6寸は村上氏の写真と同型のもの、日にちが経つにつれて、少しずつではあるが変化しているのが感じられる。写真(2)の左端のこけしも頭の形、面描はこのタイプであることが分かる。この48年から49年頃が金三の梅吉型の1つのピークと言えるだろう。良い「原」を元にした復元が工人にとって如何に大事かという証でもある。

第903夜:金三の梅吉型(2)

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Kinzo_s54_kao昨夜は高橋金三の梅吉型を、その初期(昭和47年)から昭和50年頃までの作品で眺めてきた。今夜は、その後の梅吉型を見てみたい。梅吉の頭部の描彩様式は4種類あり、その内の2種類(蛇の目に前髪で手絡あり、蛇の目のみ)については昨夜紹介した。その他には、手絡のみと蛇の目に手絡ありの2種類があるが、手絡のみは初期の作のみで数も少ないようだ。昭和50年代に入って、金三はこの手絡のみの梅吉型に挑戦し始めたのであろう。口絵写真は昭和54年の梅吉型の表情。

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写真(2)に手絡模様のみの梅吉型を並べてみた。右から8寸(昭和54年)、6寸(55年)、6寸(56年頃)、6寸(63年1月)である。右から2番目は55年1月備後屋で開催された「こけし古作と写し展」での頒布品である。「木の花(第弐拾四号)」の解説によれば、「原」は久松蔵の6寸で昭和4年頃の作。金三はこの「原」に52年の初め頃から取り組んだとある。

右端は菊の葉や四つ花、ロクロ線など通常は緑で描かれる部分を紫で描いている。文献で梅吉のこけしを探してみると、「図譜『こけし這子』の世界」の104頁に掲載されているこけし(1尺2寸3分、昭和初年頃)が同形式で紫色が使われている。恐らく、この梅吉の復元作と思われる。眉・目にはアクセントが出ているが、下瞼が下に膨れるようなことはなく、キリッとした鋭い表情である。右から2番目も同型のこけしであるが、紫ではなく緑が使われ、胴上下にロクロ線は無い。また鋭い表情は同じであるが、眉・目のアクセントはあまりはっきりしていない。右から3番目は2番目と同型のこけしであるが、やや胴が太く長くなって頭は横広の平頭が強くなり肩の山も低い。眉・目のアクセントは2番目よりはっきりしている。左端も同型のこけしであるが、木地形態、描彩とも「原」からはかなり離れており、もう金三自身のこけしになっている。

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写真(3)は胴が無彩の梅吉型である。梅吉の無彩こけしには直胴のものと中ほどでくびれたものがあるが、金三はくびれ型を多く作ったようだ。右は6寸、昭和47年の後半から48年頃か。胴は殆ど直胴で中央やや上に大きな鉋溝を入れたような形、鬢が太い。真ん中は49年6月の5寸、昨夜の写真(4)左から2本目と同じ時期のもの。胴は丸みを帯びている。左端は55年10月の5寸。胴は真ん中と同じであるが面描は写真(2)の右3本と同じ整った表情である。

昨年入手した梅吉のこけしを出発点にして、昨日、今日と金三のこけしを見てきたが、901夜の梅吉のように、頭頂部が蛇の目で前髪が無く手絡の描かれた梅吉型は見当たらなかった。また901夜の梅吉では肩の山に緑のロクロ線が入っていたが、金三の梅吉型にはそのような様式は見当たらなかった。

このように優れた梅吉型を作った金三も平成14年10月29日に80歳で亡くなり、梅吉型は三度後継者を失ってしまったのである。梅吉が一代で築き上げたこの優れたこけしが将来誰かによって再現される日を待ち望むばかりである。


第904夜:今年最初の新品こけし(正吾作武蔵写し)

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Syogo_takezo_s04_kao昨日、高橋正吾さんからこけしが送られて来た。昨年11月に鳴子を訪れた折に依頼したものである。今年になって最初に入手した新品こけしであり、正吾さんの今年の新作でもある。今夜はそのこけしを紹介しよう。昨年11月初め、ヤフオクに1本の古いこけしが出ていた。全体的に相当黒ずんでおり、緑の色は全く消えているような状態であった。そのためか、古品に入れてくる常連さんは現れず、1万円に満たない金額で入手することが出来た。しかし、その愛らしい下目の表情から、武蔵のかなり古いこけしであろうと思われた。11月中旬には鳴子に行く予定があり、まさにグッドのタイミングであった。口絵写真はその正吾さんの新作の表情である。

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写真(2)(3)は左が今回の「原」こけし、右が正吾さんの写しである。「原」は大きさが6寸1分、頭はやや角張った蕪形である。胴はロクロ線の無い白胴で下部に1本の鉋溝がある。胴模様は牡丹で鉋溝の上に赤い土が描かれている。目は顔の下方三分の一くらいにあり、かなりの下目である。左右の眉・目は鬢寄りで離れており、右目が下がっている。眼点は三角状で筆先でチョンと置いたような感じである。愛嬌のある愛らしい表情である。この辺の特徴は「木の花(第拾八号)」の連載覚書(17)「武蔵こけし」の⑩らっこコレクション6寸6分と同様であり、昭和4,5年の作と思われる。

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写真(4)は頭頂部の黒髪と水引。前髪を束ねて後ろに下げた黒髪に横に入れた元結の黒点が前髪から少し離れて描かれている。また、水引は6寸物のためか横と後の二対だけで、その間に斜めに描かれる一筆は省略されている。

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写真(5)は今回作って貰った5本を並べたもの。よく見ると表情にもそれぞれ違いがあるのが楽しい。正吾さんも84歳となり、目が多少不自由になったとは言え、「原」の雰囲気を見事に再現してくれた。それでも、胴のしゃくり(湾曲=反り)がやや甘かったと反省しておられた。また、以前は牡丹模様は簡単だと思っていたが実は難しいとも言っていた。今なお研究心を失わない心の若さが良いこけしを作る原動力なのであろう。いつまでも作り続けて貰いたいものである。

第905夜:橘コレクションのこけし(高橋武蔵)

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Takezo_s05_tachiko昨夜は昭和初期の武蔵こけしと正吾さんの写しを紹介した。ほぼ同時期と思われる武蔵のたちこがヤフオクの橘コレクションに出ており、小品のためか激しい争奪戦にはならず、こちらも1万円に満たない価格で落札することができた。このたちこ、どこかで見たことがあると思ったら、「こけし春秋」のNo124の「豆こけし60選(4)」2184頁に出ているものと良く似ている。今夜はその武蔵たちこを紹介しよう。口絵写真はそのたちこを斜め上から見たところ。

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写真(2)が本項の武蔵たちこで大きさは2寸5分。「こけし春秋」の解説を引用しよう。『高橋武蔵 2寸6分。明治21年生れ。造り付けのたちこ。下部の土坡は青。底にKOGESHIDOの票が貼ってあり、橘文策氏旧蔵のこけし。目尻の極端に下がったユーモラスな表情の作風のピーク時期の昭和5年頃(41才)の作か。肩の張った全体の全体のバランス絶妙。』と。

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写真(3)は胴底のラベル。本項のこけしにはKOGESHIDOのラベルも貼ってあり、当初はこの春秋のこけしと同一かと思ったが、大きさが1分違い、木地形態、描彩にも違いが見られることから別物と判断した。橘氏はこの型のたちこを何本か持っていたのであろう。本項のたちこを春秋のたちこと比べると全体的にやや細身であることが分かる。1分の大きさの違いや太さの違いは誤差の範囲なのであろう。その他の特徴は春秋の説明の通りである。何とも愛らしい夢のあるたちこではないか。

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写真(4)の左右2本のたちこは以前、春秋のたちこを正吾さんに作って貰ったもの(第140夜を参照)。これで、本項のたちこと春秋のたちこの違いを見て頂きたい。左の楓模様のたちこの土は緑であるが、右の牡丹模様のたちこの土は昨夜のこけしと同様、赤で描かれているのが興味深い。

第906夜:友の会新年例会(H26年)

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1401reikai_omiyage昨日は東京こけし友の会の新年例会があり、今夜はその紹介です。その前に報告が2つ。

1つは最近、本ブログに対して外国より多数の迷惑メールが送られてきており、この一週間ほどは新規の更新を止めてその対応を考えていました。結局、有効な対策は見つからず、迷惑メールを一旦保留にし内容を確認してから削除する作業を続けています。

もう1つは例会での出品こけしの撮影の件です。新年例会に出席された方はご承知かと思いますが、昨日の例会では出品こけしの写真撮影を控えて欲しいとのお願いがありました。例会で撮影されたこけしの写真をネット上で公開することで一部問題が発生したためです。昨日の時点では有効な対策が見い出せなかったため、撮影を禁止させて頂きました。来月以降については現在対応を検討中です。なお、それでは新年例会でどんなこけしが出たのが分からないため、本ブログでは友の会の了解を得て、問題の無い写真を掲載しております。

新年例会には、121名の方々が出席されました。招待工人は、津軽系の長谷川健三、優志の親子工人。おみやげこけしは鈴木征一(肘折系)、伊豆徹(鳴子系)の各4寸こけしの2本。例会は12時30分より受付を開始し、定刻の13時30分より始まりました。会長の新年の挨拶、招待工人の紹介と挨拶、幹事の紹介、平成25年度例会皆勤出席者(20名)の表彰と続き、新品こけしの頒布、入札・抽選こけしの頒布に入りました。頒布終了後、こけし界ニュースを挟んで、昨年から今年にかけて開催された各種イベントのスライドによる報告が行われ、最後に会が用意した大寸こけしや色紙、小椋英二さんより寄贈されたこけしの大ジャンケン大会が行われて、大盛況のうちに散会となりました。会終了後、近くの居酒屋にて長谷川親子を囲む懇親会が開かれ、こちらも41名の参加を得て大いに盛り上がりました。

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写真(2)は新年例会の開会風景。

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写真(3)は招待工人のお二人。左は長谷川健三さん、右が長谷川優志さん。

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写真(4)は皆勤賞受賞の皆さんの記念撮影。

以下は、新品頒布こけしの数々…。

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★新山実さんの第59回全国こけし祭り最高賞受賞型。

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★高橋通さん(右)と順子さん(左)のこけし。

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★田山和泉さんの小寸3本セット。

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★田中恵治さんの栄治郎型原寸(左右の花模様付き)

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★笹森淳一さんの第33回みちのくこけしまつり最高賞受賞型。

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★野地三起子さんの各種こけし。

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★西山敏彦さんの子持ちエジコ各種。

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★長谷川優志さんの各種こけし。

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★長谷川健三さんの各種こけし。

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★阿部進矢さんのこけしと木地玩具各種。

以下は入札こけしと抽選こけし。

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●入札こけし。後列右から、高橋武蔵(S11年、保存極美)、高橋武蔵の亀三郎型、盛秀太郎(口の中にハート模様の白抜きあり)、奥瀬鉄則、坂下隆蔵(権太郎名義)、大沼誓(70歳)、中島正(戦後)、奥山庫治初期作(ナデシコ模様は珍しい)、前列右から、土湯系不明達磨(忠蔵?、キン?)、秋山一雄(S39年頃)、佐久間虎吉、井上四郎の子持ち、本田功・今晃合作こけし(S56年)、柿崎文雄の高亀型、奥瀬鉄則の泣き達磨、佐藤善二の初期幸兵衛型(S37年)。

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●抽選こけし。佐藤英太郎の髷付き極上品とこげす各種、盛美津雄、奥瀬鉄則、奥瀬陽子、奥瀬恵介のこけし各種、阿部進矢の5本組、井上ゆこ子の小寸3本組各種、佐久間俊雄など。

以下は、ジャンケン大会用の大寸こけし(後列)と皆勤賞受賞者への贈呈こけし5寸(前列)

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第907夜:昭和20年代前半の桜井昭二のこけし

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Syo2_honnin_s22_kaoほぼ一年ほど前にヤフオクで戦後間もない頃と思われる鳴子系こけしを入手した。目が大きく新型の影響を受けたようなこけしと思われた。昭和20年代前半頃のものと思われたが、当時のこけしは文献でも殆ど触れられることもなかったため、それらのこけしの素性は分からず、そのままになっていた。先ごろ、最近出品が続いている橘コレクションの一環として、目の大きなこけしが出品され、その表情が昨年入手のこけしと良く似ているので、改めて比べてみることにした。口絵写真は、桜井昭二のこけしの表情である。


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写真(2)(3)に2本を並べて見た。左が昨年入手したこけしで、右が橘コレクションの一環として出品されたこけしである。左は大きさ6寸。胴底に「22.3.31 ・・・ 鳴子土産」の墨書きがある。土産物として頂いた方が記入したのであろう。右は大きさ8寸5分。胴底に「櫻井昭二作 昭22.6」の署名がある。共に昭和22年の作であることが分かる。右の昭二作は、木地もしっかりしており、胴上下に1本ずつ鉋溝が入り、肩の山にはウテラカシ(ザラ挽き)が施されている。また肩の上面には赤のロクロ線が1本引かれている。胴模様は各種の菊を一面に散らして華麗である。一方、左のこけしは、端材を使ったようで頭の嵌め込みも緩い。胴は湾曲の少ない直胴で、胴上下および肩の山に赤のロクロ線が引かれ、肩の上面にも赤が塗られている。胴模様はシンプルな菱菊である。

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次に、写真(4)(5)で頭部と面描を眺めてみよう。頭は両方とも縦長で、水引と鬢飾りの様式は違うものの、細く筆数の多い鬢、中央部に力を入れた描いた眉、向かって右瞼が下がった大きな瞳など、同一人の筆致を思わせる。従って、右のこけしが昭二作であれば、左のこけしも昭二作である可能性は強い。使われた木材、作りの丁寧さなどから、左は一般観光客向けのお土産こけしとして多産されたもので署名もしていないが右は収集家向けに力を入れて作ったもので署名もしたのではないかと思われる。

ここで、桜井昭二の初期のこけし作りを振り返ってみよう。「こけし辞典」や「桜井昭二と第8回伝統こけし30人展」の冊子によれば、昭二は昭和2年1月1日の生まれで、桜井万之丞の長男である。昭和16年、鳴子尋常高等小学校を卒業後、中山平の伯父大沼岩蔵に弟子入りし、木地修業を行う。昭和21年(20歳)に鳴子に戻り、新型や旧型のこけしを作ったとある。岩蔵に弟子入りする前の戦前のこけし(昭和14年作)も存在するようだ。

これより、本項の昭和22年作は、鳴子に戻ってから間もない頃に作られたこけしということになる。岩蔵の弟子でありながら、最初は岩蔵型を作ったのではないことが分かる。8寸5分のこけしの胴は木地・描彩とも、明らかに父万之丞のこけしを引き継いだものであることは分かるが、縦長の頭で大きな目は万之丞とはやや異なる。しかし、鳴子に戻った昭二は、描彩を母こうから習ったとあり、「こけしの美」掲載の万之丞(描彩こう)は比較的大きい目をしており、その影響は考えられなくはない。昭二が本格的に岩蔵型に取り組むのは昭和25年頃からとあるが、25年の署名で本項のこけしと同様に大きな目のこけしも存在しているので、その頃まではこのような大きな目のこけしが作られていたのであろう。

第908夜:伊豆徹さんの定雄こけし写し(80万アクセス)

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2月になってから写真を撮る機会が無く、更新が滞ってしまった。この間、千夜一夜を訪問されてくれた方々には申し訳なく、お詫び申し上げます。また、気が付いたらアクセス回数も80万を超えており、併せて御礼申し上げます。さて、2/10に銀山温泉の伊豆徹さんから、こけしとエジコが送られてきた。昨年の12月に銀山温泉を訪問した折に頼んでいた伊豆定雄のこけしとエジコの写しである。今夜は、その内のこけしを紹介したい。口絵写真は徹さんの定雄写しの表情である。

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写真(2)(3)の左から2本目が「原」として持参した定雄のこけし。「こけしと作者」掲載の橘コレクションの現品である(第885夜参照)。右2本はそれを元に作って貰った写し。訪問した折、徹さんは「原」の写真を撮り、各部の寸法を測ってメモに取っていた。「原」は預けるつもりであったが、無くなったりすると困るとのことで持ち帰った。ご覧頂くように、木地形態、描彩とも「原」とは細部で違いが見られ、この辺りが「原」が手元に無く、写真からの写し作成の限界かも知れない。

個々に見てみると、胴が「原」よりやや長めで、頭の形は縦長ではあるが定雄作は頭頂部がすぼんでいる。扁平な肩の山、胴中央部の絞り具合などはやや甘い感じである。ただ胴裾の大きな畳付きは大胆に再現されている。

面描では、顔の面積が大分違う、定雄作はオカッパの髪が頭のかなりの部分を覆い、顔はかなりの小顔になっている。目は顔の中央部で眉と目は離れている。一方、徹作の方は顔の面積が広く、目も上方にあって眉と近い。従って、定雄作はしっとりとした細面のおぼこい表情であるが、徹作は顔の各パーツが大柄でパッチリ目のいかにも現代風な美人こけしとなっている。この辺りが、こけしが具現している時代性と言えるのかも知れない。

胴模様は4段の赤い花弁だけのシンプルなものであるが、「原」では胴下部の太い赤ロクロ線の上に緑のロクロ線が引かれているのだが、前面は退色して写真では見えなかったものと思われる。徹さんに「原」を見て貰った時に確認しておけば良かったと悔やまれる。

左端は、今回の復元作に緑のロクロ線と茎葉を加えたもの。定雄作も初期は花弁だけだが、後には茎葉が付くようになるので、その様式にしたもの。模様としての完成度はこちらの方が高いかも知れない。

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写真(4)に徹さんの定雄型を並べて見た。右2本は今回の写しで左の3本は、徹さんの通常の定雄型。定雄後年のものを元にしているため、頭が横広気味で目も大きく元気なこけしとなっている。

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