先日のヤフオク入札で、佐藤末吉の戦前作を入手することができた。末吉は鳴子系と南部系の混血したようなこけしを作ったが、あまり語られることは無く、「こけし辞典」での解説も少ない。私は以前から注目していたのだが、その戦前のこけしと出会うことは少なく、従って、そのこけしを手元でじっくり鑑賞することも出来なかった。数年前に、その戦後作を手にすることが出来たが、今回その戦前作が来たことにより、その変化を比較することも可能となった。今夜は、その末吉のこけしを紹介したい思う。口絵写真は、その戦前作の表情である。
「こけし辞典」で末吉の経歴をおさらいしておこう。佐藤末吉は明治38年花巻町東町(現花巻市)の生まれ。大正8年頃、伊藤松三郎(姉の夫)の弟子となり木地修業を始める。従って、末吉は松三郎の義弟ということになる。その後、松三郎に従って、北海道、鳴子に行き、徴兵検査で花巻に帰郷して開業した。
写真(2)は、右が本項のこけし(7寸)で左は戦後間もない頃のこけし(8寸)である。胴がくびれて帯を締めた煤孫家のキナキナの木地形態である。花巻という土地柄からこのような形態のこけしを作ったのであろう。但し、両方とも頭はしっかり胴に嵌め込んであり、キナキナのようにクラクラ動かない。末吉のこけしが数多く載っている「愛玩鼓楽」を見てみると、No765(S15年)が同型のこけしである。ただ表情はNo763(S13年頃)に近い。特に左目の上がった面描は松三郎の表情とよく似ている。従って、制作時期は昭和14年頃ではないだろうか。左のこけしは昭和20年代のものと思われるが、木地形態は戦前作と殆ど変らない。一方で表情の変化には驚かされる。戦前作は、前髪、鬢とも顔の上方に寄り、大らかな筆使いで可憐でおぼこい乙女の顔を描いているが、戦後作では面描が中央に寄り、きっちりした筆でチマチマとした表情になっている。戦後の新型こけしの影響も見受けられる。また、正面から見ると殆ど同じように見える胴の菊模様も、戦前作では両脇に蕾が描かれているが、戦後作では無くなっている。このような胴模様の簡略化と様式化は他の鳴子系工人にも見られる現象であり、多作による効率化の一環と思われるが残念なことである。