鳴子系の工人に柴崎丑次郎という工人が居て、そのこけしが時々ヤフオクなどの中古市場に出て来るのは知っていたが、今迄あまり興味が湧かず、そのこけしも所蔵していなかった。先日、ヤフオクにその丑次郎のこけしが出ており、高勘こけしを思わせる大輪の正面菊を描いた胴模様に惹かれて入手した。今夜は、その柴崎丑次郎のこけしを紹介しよう。口絵写真は顔のアップである。
柴崎丑次郎は明治21年、山形県北村山郡高橋(尾花沢の北東)の生まれ。松田初見は甥にあたる。明治25年に鳴子に移り、35年15歳で勘治の弟子となった。3年間木地修業をしたのち38年に18歳で独立し新屋敷で開業した。その後、各地を廻り、昭和7年に鳴子に戻った。こけしは戦前から作っていたらしいが戦前作は鈴木コレクションの昭和初年作と称するものくらいである。戦後は、昭和42年に鹿間氏の依頼で菅原和平木地に描彩したのが復活初作で、その後、松田三夫や中鉢君雄の木地にも描彩していたが、44年2月頃より自挽もするようになった。(以上「こけし辞典」より)。昭和46年12月29日84歳で亡くなった。丑次郎は勘治の弟子であるが、こけしの伝承はなく見取学問と言えるだろう。また、丑次郎とそのこけしに関する記載は「こけし辞典」程度であるが、須田氏の「想い出のこけし達」には、戦後の復活作が写真掲載されている。
本項のこけしは大きさが7寸8分。胴底の署名は「柴崎丑二郎 八十一才」。他に鉛筆書きで「68.5.5 第一回 木地和平」とあり、最初の入手者が記入したものであろう。このこけしは和平木地であるが、復活初作かどうかは判然としない。第一回とあることから、何回か作られたと思われる。
写真は3方向かた見たところ。一筆目に大輪の正面菊を2輪描いている。「こけし辞典」には自挽のこけしが2本、「想い出のこけし」には9本のこけしとねまりこが1本掲載されているが、胴模様は菱菊、重ね菊、けし、かえでであり、本項のような模様は載っていない。胴模様の筆致はぼってりと大きく描かれているが、墨で描かれた前髪、鬢、眉・目・鼻は何ともたどたどしく、心もとない。しかし、顔の下方に描かれた殆ど一本線のような一筆目は、見る者の心を和ませ、たどたどしいが故に癒しの効果を持っている。「こけし辞典」や「想い出のこけし」では、もう少ししっかりした筆致になっているので、本項のこけしは復活初期のものかも知れない。
この丑次郎のこけしは高橋定助のこけしと同様、稚拙さが見所なのであり、こけしの奥深さを感じさせるこけしである。